亀の井別荘とは

亀の井別荘の歴史

 一見、乱れ立つと見える杉や松の古木は揃って二本ずつ植えられている。江戸時代には「祇園社」の境内であったこの場所に、村人は「夫婦寄せ」の苗木を植えたのだ。村の牛馬が元気に交わって繁殖するよう願ったのである。それが今、ようやく大樹に育って亀の井別荘の一万坪の夏庭を涼しくしている。

牛馬の生死を取り扱ったのは、昔「朝鮮」から渡来した村人だ。「必要」とされながら、「押しひしがれ」てきた渡来人たちの歴史が数百年も続いて、その上に「隠れキリシタン」の密やかな暮らしが覆いかぶさっている。由布院村の風景が何となく霧になじんで見えるのはそのせいかも知れない。


 さて領主・大友義統が秀吉に追われて豊後一国はばらばらに切り貼りされた頃から、小さな集落の連合体だった「由布院村」は大きく二つに「統合・分断」された。川の向う側は幕府直轄の「島原藩」(キリシタン監察藩)への預け地に、川のこちら側、つまり亀の井別荘側は延岡の「内藤藩」(貧窮小藩)の飛び地にそれぞれ分断されたのだ。法を厳しく敷き、「役所」を遠くに置いて、民との関係を見切る、絵に描いたような「棄民政策」である。それならばと、非情な歴史を掻い潜って、頑固な「庄屋たち」が旧集落に現れた。由布院のしぶとい「村造り」の根っこはそこから始まる。そして四百年が過ぎた。


 最近の四十年間で「由布院衆」が見せた「ばらばらのしぶとい町造り運動」は、キリシタン弾圧に抗して生き抜いてきた「庄屋たち」の「遺伝子」の所為のような気がする。
さて明治の「ご親政」が始まると、「牛馬専従」の民は開放され、同時に「祇園社」も解体されて、この辺りは茫々の荒地となった。そこを加賀の国から流れてきた私の祖父・中谷巳次郎が開拓・整地し、偶然出会った油屋熊八翁(別府の不思議な実業家)の「夢」に合い乗りして別荘を建てたのだ。大正の初め、戦争の合間に咲いた小さな花、「VIP招待用の別荘」、すなわち「亀の井別荘」の前身である。「夢」ばかり大きくて「財布」の小さかった油屋と巳次郎は、大阪の財閥清水銀行の好意を繋ぎながら由布院盆地に根を生やして行くのだが、当時はまだ列車も走っていない。


 旅館「亀の井別荘」は名前のとおり、お客様の「別荘」である。別荘だからお客様が滞在なさる。「滞在旅館」と呼んでも良い。そう決めたのは大正十三年、祖父巳次郎が本多静六博士(林学)と出会った年だ。本多博士は日本の「国立公園」の草分けである。油屋に案内されてやってきた林学博士と、「庭」にうるさかった祖父は、たちまち馬が合ってしまったようだ。「ドイツに学べ」と博士は、乙丸集落の「棉陰尋常小学校」の講演で仰った。「ドイツの滞在型保養温泉を目指せ」「よしッ、目指そうッ」。ドイツなど観たこともない由布院文化人たちは、たちどころに賛同し、その覚悟を一冊の冊子「由布院温泉発展策」にまとめた。


亀の井別荘 主人